1872年に開業した日本最初の鉄道は国による建設であり日本の鉄道は国有国営を旨としたが、その後勃発した西南戦争による政府財政の窮乏により、幹線鉄道網の一部は日本鉄道などの私鉄により建設されたのが、基本的な流れです。ただ、その国有国営の鉄道から日本鉄道の間に高橋嘉右衛門により端を成された民間私設鉄道構想がありました。

目次
➀高島嘉右衛門の諦めきれない鉄道事業熱
 
②岩倉具視の賛同
 
③会社の設立と失敗
 
④日本鉄道会社

■➀高島嘉右衛門の諦めきれない鉄道事業熱■

 1872年、日本初の鉄道・品川~横浜間が開業します。

 早い時期から品川・横浜鉄道の敷設についての構想を考えたものの、大隈重信・伊藤博文らによって強行されてしまい、その鉄道がとおる道の埋め立てに参加する事しかできなかった高橋嘉右衛門は、品川~横浜間が開業した頃、まだ自身の手で鉄道事業を興す夢をあきらめていませんでした。

 鉄道開業の少し前である1871年晩秋から1872年の春頃、『北海道移住建言書』など太政官工部省に提出し、その中では「東京⇔青森」間路線の必要性とその敷設に要する莫大な資金捻出のために多数の出資者を募る株式会社方式の採用が唱えられていました。

 そして、品川・横浜間鉄道が仮営業して間もない1872年7月には『東京府内周辺廻ノ鉄道車路(山手線如きもの)』の敷設を請願しています。

■②岩倉具視の賛同■

 嘉右衛門の建議と同じくして、かつて京浜間の鉄道敷設を支持した岩倉具視はイギリスの首都ロンドンにあり、ティーハウスで岩倉、蜂須賀、鍋島(直大)は「陸羽⇔東京間の鉄道敷設が北海道の開拓と北辺の防衛の見地からして急務であるが、国庫逼迫の折から鉄道官設の推進が難しい現状に鑑みて、華族有志が率先して有力者を募り、家禄家財の余力を以て資金とし、一丸となって会社を設立すべし」という方針で含意しました。

 政府の鉄道政策はしかし、鉄道官設方針と国庫財政難のはざまで揺れ動きました。

 1873年9月13日岩倉が帰国するや、その肝入りで大名華族中の大物たちが私設鉄道開設に動き始めました。

 岩倉とその子息たちは(嘉右衛門が経営している宿の)高島の乗客でもあり、嘉右衛門は岩倉にかねてから温めていた華族出資による施設鉄道開業案を説きました。

 岩倉はアメリカに渡った折、サンフランシスコからロッキー山脈を越えてニューヨークへとつながる鉄道を用いました。私人の手によればこそ、あの広大な国土の縦横に路線を敷くことができたといったようです。

 

 華族出資によって東京⇔青森間に私設鉄道を敷設する嘉右衛門の案に賛同、その推進役として伊達宗城と松平慶永を紹介したようです。

■③会社の設立と失敗■

 1873年岩倉は明治六年政変に関わり、1874年1月14日喰違門で征韓派壮士の襲撃を受けるようです。

 1874年9月に高島は、「ロシアの南下に対する北門の備えを万全とするために東京政府と東北各地を連結する運輸網の整備が焦眉の急である」と前置きをしたうえで、明治5年5月に提出した『東京ヨリ青森マテ鉄道建言書』にもとづく敷設計画案を約3時間にわたり熱弁しました。

 これにより9月14日「華族いよる本邦初の私設鉄道敷設プロジェクトが産声を上げました。

 総代として前島密(京浜鉄道敷設に際して『鉄道憶測』なる予算案を策定)がなり、会計事務担当として高島の推薦で渋沢栄一(元大蔵権大丞で下野後に第一国立銀行総監役)が選ばれました。また敷設工事方として高島嘉右衛門が就任しています。

 1875年3月27日には華族鉄道会社が正式に設立します。

 予算のため当初の計画を見直し、最初の敷設路線を東京⇔宇都宮と変更しました。

 しかし、会計事務担当であった渋沢は欧米型の株式会社制度を支持して自ら≪合本主義≫を唱え、民間事業の育成を殖産興業の基軸に据えてきたこともあり、会計的現実から民間による鉄道敷設さえもやめて、井上馨(官を辞して野に在り、渋沢や益田孝とともに貿易会社先収会社を設立、三井家と結託して財政界に穏然たる地位を得ていた)と打ち合わせ、京浜鉄道払い下げという事で話をまとめてしまいました。

 1875年、第4回会議において井上馨は「新しい鉄道敷設よりも既設の新橋横浜路線を政府から買いあげるほうが適宜の方法」と話したようです。

 因みに伊藤と井上は青年期より肝胆相照らす関係で、御殿山のイギリス公使館焼き討ちにも連れだって参加し、維新後は築地大隈邸で日夜議論に花を咲かせた仲でした。

 渋沢も最初大隈に才覚を見出され新政府に出仕、まもなく井上の忠実な部下として活躍し、薩摩閥との確執に際しては井上と連袂辞任したほどの間柄でした。

 国家財政窮迫の折から、「本邦初の壮挙」とはいえ殖産興業の一見本にすぎぬ京浜間鉄道を華族に売り払って資金難を少しでも和らげたいという気持ちもあったようです。

 1876年8月5日に払い下げています。

■④日本鉄道会社■

 この民間による初めて鉄道敷設は1881年に岩倉具視ら華族らの参加が再びあり「日本鉄道」として実現しています。出金名簿に高島の名前もあり、渋沢は中心的な役割を果たしたと言います。8月1日に設立が決定し11月11日に会社が設立しています。この会社は1883年にまず中山道に沿った鉄道の敷設を考え、上野~熊谷間の鉄道を敷設します。

 この「日本鉄道」の話は1877年に勃発した西南戦争による政府財政の窮乏により端を成しました。財政難から「鉄道は原則国有」という方針を変え、私有資本による鉄道建設を推し進めました。

 こうして1881年政府の保護を受けた半官半民の日本鉄道が設立します。そして日本鉄道の成功により、半官半民の鉄道会社が次々に設立していったようです。

 

『高島嘉右衛門』松田裕之・日本経済評論社・2012.8.10参照

『鉄道の歴史』時空旅人Vol.19、2014.5月号臨時増刊・三栄書房参照

Wikipedia「日本鉄道」「高島嘉右衛門」参照

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